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大したことは書きません

修身教授録(1)【第1講 学年始めの挨拶】

要約:世界中に大勢の人間がいる中で、私たちが一生のうちに出会う人間の数は極めて少ない。そして、その中で特に親しくなる人間はさらに少ない。そのような関係の中でも、特に師弟関係は独特であり、なぜなら何ら利害の打算がなく、純粋な関係だからである。また、私たちは望んで師弟となったわけではなく、不思議な縁によって結び付けられている。自分の身に降りかかる事柄は、すべて天命として受け入れるということが、最善の人生態度であると言える。

 

学年始めの挨拶ということで、森先生が学生たちと「教授ー学生」という関係で巡り合ったことの特別さについて語られている。

 

この地球上には二十何億(当時)近い人間が住んでいると言いますが、それはしばらく措くとしても、同じ血液を分け合っている日本人だけを考えても、八、九千万人もあるわけですが、そのうちわれわれが一生に間に知り合う人間の数はきわめてわずかでしょう。(p11)

 

こう言われると、確かになという気になる。現在、世界人口は七十億を超え、特定個人と知り合う確率の分母はどんどん大きくなってきている。

 

とくに師弟関係というものは、一種独特の関係であって、そこには何ら利害の打算というものがないわけです。実際世に師弟の関係ほどある意味で純粋な関係はないとも言えましょう。(p12)

 

諏訪哲二によれば、師弟関係、言い換えれば「教えるー学ぶ」関係は、「等価交換」というよりは「贈与」に近いという。教師は、教えた分だけ子どもに見返りを求めるわけではなく、何も返ってこないと知りながら教育活動を行っている。その意味で、利害関係に支配されていない関係であるというのは正しいのかもしれない。

 

だが、一方で、最近では教師を選ぶ子ども(親)が増えている。実際に選べるかどうかはともかく、「担任を変えて欲しい」と要求したりする。また、教師の側も、問題児が転校してきたりすると、「私ではあの子を見ることなんてできません」と自分の学級に受け入れることに難色を示すという。

 

こういったことは、人間関係が機能的にしか見られていないことに起因していると考えられる。

 

大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として慎んでお受けするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。(p13)

 

人間関係に限定すれば、これは正しいのかもしれない。田中智志は、社会が機能的になるにつれて、人々は自分に理解可能なものだけを求めるようになったと指摘し、それを「他者の喪失」と表現する。

 

ここで、他者論に踏み込まざるを得ないだろう。哲学的に、「他者」という言葉は三つの意味を持つ。

 

  • 実在概念としての他者(他人)
  • 集合概念としての他者(自分と異なる文化に属する存在)
  • 方法概念としての他者(全く理解不可能な存在)

 

日常的に、私たちは一つ目の意味で「他者」という言葉を使うことが多い。しかし、例えばポストコロニアリズム(脱植民地主義)を考える上で二つ目の議論は欠かせないし、教育では三つ目、つまり「子どもは本来、全く理解不可能な存在である」ということを前提にしなければならない。

 

話を戻そう。人間関係が機能的になるとは、つまり、その人を役に立つ/立たないという尺度で測ることである。確かにそれは、合理的かもしれない。しかし、そのように機能的に考えた時点で、「他者」の他者性はすでに消去されているのである。「他者」は、自分にとって完全に予測可能な存在として現れる。そこには、何ら驚きはないだろう。言い換えれば、「経験」は起こり得ないであろう。

 

だからこそ、人との出会いを天の命として引き受けることは、「他者」の他者性を何とか保持しつつ、相互にとって「経験」の可能性を開くものであるといえるのかもしれない。あるがままの存在を引き受ける、と言い換えてもいいだろう。

 

しかし、この考え方は一歩間違えると、「現状を何も言わずに受け入れなさい」という要求に移り変わる危険性を秘めている。昨今、いわゆるネトウヨと呼ばれる人々が口々に、「日本が嫌なら出て行け」と喚き立てる。これは、日本の現状を受け入れる/受け入れないという浅はかな二分法に基づいた脅迫であり、どうかしている。

 

問題は、「なぜ現状を変えようと思ってはいけないのか」ということであろう。そこには、絶対的な信頼に価する価値が失われた時代の冷笑主義が関わっているように思う。

 

例えば、リオタールは近代(モダン)を、誰もが信頼できる絶対的な価値や基準(「大きな物語」)が機能していた時代であるのに対し、ポストモダンの到来とともに、そのような「大きな物語」が崩壊し、代わりに個々の人間が「小さな物語」を自由に紡ぎ出すようになったと指摘している。

 

また、バウマンは、近代が安定したソリッド(個体)であるのに対し、ポストモダン社会は不安定で流動性の高いリキッド(液状)であると指摘している。

 

つまり、現代社会には、誰もが絶対的に信頼できるような「大きな物語」がないため、人々は常に不安定で流動性の高い社会を生きることになる。そうした中で、目指すべき「外部」(目標、理想、夢といってもいいかもしれない)を見失い、保守化していくのである。そして言うのだ、「現状を黙って受け入れよ」と。しかし、現状肯定に傾いた社会に未来はないと思う。なぜなら、常に新しい命が誕生しており、彼(女)らは新しい何かを始める力を有しているからだ。

 

起こってしまったことは仕方がない、それは天の命として慎んでお受けしようではないか。現状から逃げていては何も始まらないのだから。だが、この現状をよりよくできるのならば、逃げずに闘おう。そういった強さを「修身」と呼んでは、保守派に怒られるであろうか。

 

 

オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)

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ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

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リキッド・モダニティ―液状化する社会

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