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大したことは書きません

修身教授録(0)

『修身教授録』という本があります。

 

修身教授録 (致知選書)

修身教授録 (致知選書)

 

 

昭和12〜14年にかけて、大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)の学生相手に行われた修身の講義録です。全部で、79回にわたる講義が、それを聴いていた学生の筆記により残されているというわけです。

 

今日からやっていきたいのは、

  • 1講ずつ読んでいく
  • そのエッセンスを紹介する
  • テクスト論的読みをする

ということです。上二つのことは、多くのブログですでに取り組まれていることですが、三つ目の、テクスト論的読みということについて、少し説明します。

 

従来、本を「読む」ということは、作家の意図を読み取ることとしてとらえられていました。これを作家論といいます。

 

しかし、各国で作家論の不十分さ(あるいは不可能さ)に批判が集まり、多様な批評が展開されるようになりました。代表的なものには、

  • ニュークリティック(英)
  • フォルマリズム(露)
  • ナラトロジー(仏)
  • 読者論(独)

などがあります。ちなみに、日本では作品論(作品を繰り返し読むことで、作家の真意に近づけるとする考え)という、作家論とあまり違わないものが流行ってしまい、外国の批評はそこまで知られていないのが現状です。

 

これら新しい批評のスタイルは全て、「作家の死」を特徴としています。つまり、作家の意図を理解しようとするのではなく、「私」がそこから何を読み取るのか、という読み方への転回です。このように、作家の呪縛を逃れた批評対象を「テクスト」と呼ぶのです。

 

森信三先生が生きておられた時代と、今、私(たち)が生きている時代には結構な隔たりがあります。当然、ただ単に森先生の思想を正しく読み取る、というやり方を取っていたのでは、時代にそぐわないものとなってしまうでしょう。あるいはまた、時代錯誤に「古き良き本来の日本へ!」とありもしない共同体幻想に沈んでいくしかないでしょう。

 

そこで、この『修身教授録』で言わんとする最低限のエッセンスは保持しつつも、同時にテクスト論的に読むことで、現代の立場から批評を試みたいと思うのです。切り口としては、

などです。

 

テクスト論のいいところは、これを行うことで、「より面白い読み」を示せるところにあると思います。全79回(失踪しなければ、です)の中で、誰にもできない「私」個人の読みを、自由に展開していこうと思います。

 

それでは。