Graffiti on the Wall

大したことは書きません

一般言語学講義(0)

古代から、言語とは何かという問いはなされてきた。例えば、古代ギリシアの哲学者、プラトンの『クラテュロス』の中では、

  • 言葉とそれが支持する事物との間には自然な関係があるとする派
  • 事物の命名は単に社会的な約束事であるとする派

という二つの立場の論争が描かれている。

ここでいう自然[nature:自然、本質]な関係とは、言葉は事物の「自然=本質」を反映するものだという考え方である。ネコ(の形をしている動物)は、“ネコ”たる何か本質的なものを持っているがゆえに、ネコという名前で呼ばれる、ということだ。なお、この言語観は、聖書において、神が動物やその他万物に名前をつけていったというところに由来する。おそらく、現代において説得力を持つものではないだろう。

二つ目の、言葉は社会的なものである、という考え方は一定の説得力を持つものであると思われる。ネコは、日本語では「neko」であり、英語では「cat」であり、ドイツ語では「Katze」である。このように、ある事物をどういった名前で呼ぶのかということについては、社会によって異なる、というのは、グローバル化した現代では当たり前のことであろう。

 

だが、上記の二つの立場は、ともに、「言葉は事物の名前である」ということを前提としている点で同じである。だが、言葉は単なる事物の名前であるという以上に、大きな役割を担っている。

 

ここでは、

  • 言葉による意味伝達の仕組み
  • 言葉の意味とは何か

の二つについて論じていく。

 

扱うテクストは、フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義:コンスタンタンのノート』である。言語論的転回の始祖であり、構造主義を準備した人物としても有名であるソシュールだが、近年はすでに古いものとして扱われがちで、あまり注目されていないように思う。

だが、ソシュール言語学は、後の記号論カルチュラル・スタディーズにも影響を与えており、重要性は薄れていない。ここでは、その思想を簡潔に教えていく。

 

第1部

(1)用語の整理

(2)ランガージュとラング

(3)ラングとパロール

(4)ラングとパロールの個人性と社会性

(5)コミュニケーションとは何か

 

第2部

(1)用語の整理

(2)シーニュ

(3)言語の恣意性:シニフィアンシニフィエ

(4)ラングとシーニュ

(5)言葉の意味とは何か

 

こんな感じで進めていきます。私より詳しい方がいましたら、是非補足や修正をよろしくお願いします。

 

ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート

ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート

 

 

修身教授録(2)【第2講 人間と生まれて】

要約:私たちはなぜ、人間として生を受けることができたのか、人は普段考えることは少ない。だが、人生の根本目標が、人間として生を受けたことの意義を自覚して、これを実現することに他ならないとすれば、この問題について考えることは避けられない。私たちが人間として生まれたことは、特別な権利や資格に基づくものではなく、ただ自己を超えた大いなる力によるものである。それゆえ、人間として生まれたことに感謝し、そのことを自覚して生きる必要がある。

 

著者は、なぜ私たちが人間として生を受けることができたのかと学生に問いかける。

 

われわれ人間にとって、人生の根本目標は、結局は人として生をこの世にうけたことの真の意義を自覚して、これを実現する以外にない。(p17)

 

そのためには、冒頭の問いについて考えなければならないという。 

 

そもそもわれわれのうち、果たして何人が自分は人間として生まれるのが当然だと言い得るような特別な権利や資格を持っているものがあるでしょうか。(p18)

 

確かに、数ある生物(動物や、植物も含む)の中で、なぜ私たちが人間として生まれてきたのかということについては、理由付けは不可能であるように思う。前世の業(カルマ)に理由を求めることもできるかもしれないが、そうした途端、私たちの生は、来世の利益のために<いま・ここ・わたし>を耐え忍ぶというものになってしまうのではないだろうか。あえて言うならば「偶然」ないしは「奇跡」であろう。

 

しかし、著者が主語を「われわれ」(複数形)としているのが気になる。なぜ「われ」(単数形)ではないのか。単に集団に対する講義の中での語りだからであろうか。

 

「われわれ」について語るのは、思いの外難しい。いくら「われわれ」について語ろうとしても、そこから抜け落ちてしまう人々は一定数(あるいはただ一人)存在しているからだ。また、「われわれ」について語るときには、その対極に「あいつら」を想定していることが多い。そして、多くの場合、「あいつら」は「われわれ」よりも劣った存在として見られることになるのである。昨今で言えば、「優れた日本人」に対し、「劣った朝鮮人」「劣った中国人」という図式を想定して語ることで、本来差別的であることをさも合理的な理由があるかのように、区別にすり替えていく。「差別じゃないよ、区別だよ」というとき、大抵そこで語られている内容は差別的である。

 

人間性、というものがあるのなら、それについて思考し、語るのは人間である。いや、「われわれ」人間である、といった方が適切だろう。この思考法、語りの方法は、優れた人間/劣った人間、また、人間/非人間という不平等を設けた上で行われることになる。

 

アレントは、古代ギリシアにおいて、成人男性は公的世界(ポリス)で政治的活動を行う人間であり、女性や奴隷は私的世界(家族)で労働に従事するヒトであった。また、近代的市民国家の建設において、初期段階で市民とされたのは常に成人男性だった。現代でも、「男性は理性的に物事を考えるから公の場で活躍し、女性は感情的だから公の場ではなく家にいろ」という論を展開する保守派は多い。中には、女性の公への進出は朝鮮・中国による陰謀だ、などという極論まで現れる始末だ。

 

「男性は理性的に物事を考えるから公の場で活躍し、女性は感情的だから公の場ではなく家にいろ」が区別に見えるのであれば、少し立ち止まって考えて欲しい。理性的/感情的という区別に、男性/女性という区別を当てはめることは適切だろうか。カテゴリーの選択は、明らかに恣意的である。さらには、男性/女性という生物学的な性差でさえも社会的に構築されたものだとする論も、バトラーなどによって論じられている。もはや、性に何か本性のようなものを帰属させる思考は通用しないように思う。

 

自分は人間として生まれるべきなんらの功徳も積んでいないのに、今、こうして牛馬や犬猫とならないで、ここに人身として生をうけ得たことの辱さよ! という感慨があってこそ、初めて人生も真に厳粛となるのではないでしょうか。(p21)

 

人間として生まれたことに感謝できる人が、今の世の中にどれだけいるだろうか。自分や、われわれを愛することができなくなった現代人について、スティグレールは論じている。人間であることへの感謝を強要するのではなく、感謝ができるような環境を、社会を、国を作っていくのが大人の務めではないだろうか。愛国心についても言える気がするが、愛は強要できない。

 

引用部分では、主語が「自分」となっている。道徳(修身)は、外部から与えられる道徳心ではなく、内なる道徳心を育むものではないだろうか。それならば、主語は「われ」「自分」であるのがいいと思うのだ。

 

 

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

人間の条件 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

ジェンダー・トラブル―フェミニズムとアイデンティティの攪乱

 

 

 

愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

愛するということ―「自分」を、そして「われわれ」を

 

 

修身教授録(1)【第1講 学年始めの挨拶】

要約:世界中に大勢の人間がいる中で、私たちが一生のうちに出会う人間の数は極めて少ない。そして、その中で特に親しくなる人間はさらに少ない。そのような関係の中でも、特に師弟関係は独特であり、なぜなら何ら利害の打算がなく、純粋な関係だからである。また、私たちは望んで師弟となったわけではなく、不思議な縁によって結び付けられている。自分の身に降りかかる事柄は、すべて天命として受け入れるということが、最善の人生態度であると言える。

 

学年始めの挨拶ということで、森先生が学生たちと「教授ー学生」という関係で巡り合ったことの特別さについて語られている。

 

この地球上には二十何億(当時)近い人間が住んでいると言いますが、それはしばらく措くとしても、同じ血液を分け合っている日本人だけを考えても、八、九千万人もあるわけですが、そのうちわれわれが一生に間に知り合う人間の数はきわめてわずかでしょう。(p11)

 

こう言われると、確かになという気になる。現在、世界人口は七十億を超え、特定個人と知り合う確率の分母はどんどん大きくなってきている。

 

とくに師弟関係というものは、一種独特の関係であって、そこには何ら利害の打算というものがないわけです。実際世に師弟の関係ほどある意味で純粋な関係はないとも言えましょう。(p12)

 

諏訪哲二によれば、師弟関係、言い換えれば「教えるー学ぶ」関係は、「等価交換」というよりは「贈与」に近いという。教師は、教えた分だけ子どもに見返りを求めるわけではなく、何も返ってこないと知りながら教育活動を行っている。その意味で、利害関係に支配されていない関係であるというのは正しいのかもしれない。

 

だが、一方で、最近では教師を選ぶ子ども(親)が増えている。実際に選べるかどうかはともかく、「担任を変えて欲しい」と要求したりする。また、教師の側も、問題児が転校してきたりすると、「私ではあの子を見ることなんてできません」と自分の学級に受け入れることに難色を示すという。

 

こういったことは、人間関係が機能的にしか見られていないことに起因していると考えられる。

 

大よそわが身に降りかかる事柄は、すべてこれを天の命として慎んでお受けするということが、われわれにとっては最善の人生態度と思うわけです。(p13)

 

人間関係に限定すれば、これは正しいのかもしれない。田中智志は、社会が機能的になるにつれて、人々は自分に理解可能なものだけを求めるようになったと指摘し、それを「他者の喪失」と表現する。

 

ここで、他者論に踏み込まざるを得ないだろう。哲学的に、「他者」という言葉は三つの意味を持つ。

 

  • 実在概念としての他者(他人)
  • 集合概念としての他者(自分と異なる文化に属する存在)
  • 方法概念としての他者(全く理解不可能な存在)

 

日常的に、私たちは一つ目の意味で「他者」という言葉を使うことが多い。しかし、例えばポストコロニアリズム(脱植民地主義)を考える上で二つ目の議論は欠かせないし、教育では三つ目、つまり「子どもは本来、全く理解不可能な存在である」ということを前提にしなければならない。

 

話を戻そう。人間関係が機能的になるとは、つまり、その人を役に立つ/立たないという尺度で測ることである。確かにそれは、合理的かもしれない。しかし、そのように機能的に考えた時点で、「他者」の他者性はすでに消去されているのである。「他者」は、自分にとって完全に予測可能な存在として現れる。そこには、何ら驚きはないだろう。言い換えれば、「経験」は起こり得ないであろう。

 

だからこそ、人との出会いを天の命として引き受けることは、「他者」の他者性を何とか保持しつつ、相互にとって「経験」の可能性を開くものであるといえるのかもしれない。あるがままの存在を引き受ける、と言い換えてもいいだろう。

 

しかし、この考え方は一歩間違えると、「現状を何も言わずに受け入れなさい」という要求に移り変わる危険性を秘めている。昨今、いわゆるネトウヨと呼ばれる人々が口々に、「日本が嫌なら出て行け」と喚き立てる。これは、日本の現状を受け入れる/受け入れないという浅はかな二分法に基づいた脅迫であり、どうかしている。

 

問題は、「なぜ現状を変えようと思ってはいけないのか」ということであろう。そこには、絶対的な信頼に価する価値が失われた時代の冷笑主義が関わっているように思う。

 

例えば、リオタールは近代(モダン)を、誰もが信頼できる絶対的な価値や基準(「大きな物語」)が機能していた時代であるのに対し、ポストモダンの到来とともに、そのような「大きな物語」が崩壊し、代わりに個々の人間が「小さな物語」を自由に紡ぎ出すようになったと指摘している。

 

また、バウマンは、近代が安定したソリッド(個体)であるのに対し、ポストモダン社会は不安定で流動性の高いリキッド(液状)であると指摘している。

 

つまり、現代社会には、誰もが絶対的に信頼できるような「大きな物語」がないため、人々は常に不安定で流動性の高い社会を生きることになる。そうした中で、目指すべき「外部」(目標、理想、夢といってもいいかもしれない)を見失い、保守化していくのである。そして言うのだ、「現状を黙って受け入れよ」と。しかし、現状肯定に傾いた社会に未来はないと思う。なぜなら、常に新しい命が誕生しており、彼(女)らは新しい何かを始める力を有しているからだ。

 

起こってしまったことは仕方がない、それは天の命として慎んでお受けしようではないか。現状から逃げていては何も始まらないのだから。だが、この現状をよりよくできるのならば、逃げずに闘おう。そういった強さを「修身」と呼んでは、保守派に怒られるであろうか。

 

 

オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)

オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)

 

 

 

 

 

ポスト・モダンの条件―知・社会・言語ゲーム (叢書言語の政治 (1))

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リキッド・モダニティ―液状化する社会

リキッド・モダニティ―液状化する社会

 

 

修身教授録(0)

『修身教授録』という本があります。

 

修身教授録 (致知選書)

修身教授録 (致知選書)

 

 

昭和12〜14年にかけて、大阪天王寺師範学校(現・大阪教育大学)の学生相手に行われた修身の講義録です。全部で、79回にわたる講義が、それを聴いていた学生の筆記により残されているというわけです。

 

今日からやっていきたいのは、

  • 1講ずつ読んでいく
  • そのエッセンスを紹介する
  • テクスト論的読みをする

ということです。上二つのことは、多くのブログですでに取り組まれていることですが、三つ目の、テクスト論的読みということについて、少し説明します。

 

従来、本を「読む」ということは、作家の意図を読み取ることとしてとらえられていました。これを作家論といいます。

 

しかし、各国で作家論の不十分さ(あるいは不可能さ)に批判が集まり、多様な批評が展開されるようになりました。代表的なものには、

  • ニュークリティック(英)
  • フォルマリズム(露)
  • ナラトロジー(仏)
  • 読者論(独)

などがあります。ちなみに、日本では作品論(作品を繰り返し読むことで、作家の真意に近づけるとする考え)という、作家論とあまり違わないものが流行ってしまい、外国の批評はそこまで知られていないのが現状です。

 

これら新しい批評のスタイルは全て、「作家の死」を特徴としています。つまり、作家の意図を理解しようとするのではなく、「私」がそこから何を読み取るのか、という読み方への転回です。このように、作家の呪縛を逃れた批評対象を「テクスト」と呼ぶのです。

 

森信三先生が生きておられた時代と、今、私(たち)が生きている時代には結構な隔たりがあります。当然、ただ単に森先生の思想を正しく読み取る、というやり方を取っていたのでは、時代にそぐわないものとなってしまうでしょう。あるいはまた、時代錯誤に「古き良き本来の日本へ!」とありもしない共同体幻想に沈んでいくしかないでしょう。

 

そこで、この『修身教授録』で言わんとする最低限のエッセンスは保持しつつも、同時にテクスト論的に読むことで、現代の立場から批評を試みたいと思うのです。切り口としては、

などです。

 

テクスト論のいいところは、これを行うことで、「より面白い読み」を示せるところにあると思います。全79回(失踪しなければ、です)の中で、誰にもできない「私」個人の読みを、自由に展開していこうと思います。

 

それでは。

はじめまして

Amebaの方で色々やっていたのですが、そちらは完結型の講義という形で放置してしまおうと思い、はてなブログに移ってきました。

 

自己紹介

 

HN:pskn(ぴすくん)

出身:埼玉県浦和市(現さいたま市)→今は東京にいます

職業:大学生(2016年12月22日現在)

学部:教育学部

専攻:学校教育(特に教育思想・哲学)

趣味:読書、ギター、セーラー服、ホットケーキ

 

何を書くかは全く決めていませんが、よろしくお願いします。